山名家譜 巻之三 ②
登場人物
| 記載人物(P39~P75) |
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| 山名時氏、山名 |
PDFデータ 
- 山名家譜第三巻PDFデータ
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二日丹波志宇智に着き和久城
に至りこれより時氏父子二手に 分れてせめ登らる同九日に南方 の軍勢と約を定て未明より軍 勢を出し梅津嵯峨仁和寺西七条 辺に放火せらる官軍も八条九条 に火を放つ右衛門佐師義千余騎を 卒(率)いて進み小林右京亮七百余に て遊軍となり佐老木の一族等 と戦て是を伐破る桔梗一揆兵を 進て討てか丶る師義また一戦に 討破らる時氏父子の軍大に勝 利を得て洛中に攻入り西山の 法華寺に陣し南方の軍勢と 牒しあわせで洛中を窺う同十三日 に時氏南方の勢と一手に成て京 |
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都を攻うつ中将義詮尊氏公三男也戦
いれて謡帝を供奉し江州に 出奔あり時氏父子楠以下の諸 将進て追討により義詮また美 濃国に逃れ走る同七月廿五日南 方の官軍芳野に帰える時氏父子 も兵を引て同廿七日に丹波の山内に か丶り丹後但馬を経て同廿八日伯耆 国に帰陣あり 同年の冬尊氏公父子計て
時氏を討んと勢を集らる 時氏是を聞て足利右兵衛佐 直冬直義の子也を迎て南帝へ奏 し立て丶とし詮追 討の綸旨を賜り再び大軍を もよふ(お)し京都を攻んとあい |
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はからる
一同三年甲午十二月十三日に時氏父子
五千余騎を卒して足利右兵衛佐
直冬を伴い伯耆発山陽道の勢 を催し七千六百余騎にて丹波守 護仁木左京太夫頼章を攻む頼 章防ぎ戦うといえ共利なくして 引退く然る処に越前の足利尾 張守高経六千余騎にて登り 中の桃井播磨守直常八千余騎 にて北陸道を攻め登り京都を 討んと相計る時氏直冬共に大 江山に至る同廿四日尊氏公北帝きむく を供奉して江州武佐寺におも むく 一同四年乙未正月朔日に北国勢比
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叡山に登る同十二日時氏父子五千
六余騎にて入洛あり同十四日に 桃井直常も入洛す同十六日に足利 高経は右兵衛佐直冬を供奉して 入洛し東寺の実相院に屈す 此日時氏淀の辺に陣し則ち将對 と相議して北朝の年号文和を 停めて南朝の正平十年を用いらど る同二月四日に尊氏大軍を率い て東坂本に陣せらる義詮は神 南の北の峯に陣す右兵衛佐直 冬井に足利尾張守高経同佐衛門佐 氏頼桃井播磨守直常嫡男兵庫 助直願等六千七百余騎にて七条 より九条まで陣を張る一方は 時氏嫡男師義二男義理修理太夫三 |
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男氏冬四男民部少輔五男
時義伊豫守を始め家臣小林民部丞
河村山城守伊田波多野足達石原 久世佐伯土屋福依藤沢須藤浅 沼大庭福間佐治宇多川吉岡 安芸守後藤壱岐守小幡出羽守 倭久修理亮加地三郎左衛門尉土師 右京亮楯又八郎長門山城守毛利 因幡守佐渡但馬介塩見源太等 都合五千六百余騎にて淀川を 左に請て淀鳥羽赤井大渡に 陣せらる淀川より南の方は四条 中将隆俊法性寺左衛門督康長を 大将として楠左馬頭正儀和田の一族 石堂入道吉良左馬助赤松弾正少弼 氏範土岐原蜂屋等三千二百余 |
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騎にて小林民部丞を先陣とし
諸将と牒し合て合戦あり尊氏 討破らる洛中洛外において度々 合戦あり勝利を得といえ共大軍兵 粮に乏しく労に及んとするにより て同三月十 三日に時氏諸将と相議し て各本国に帰らる同日尊氏北帝 後光厳院を供奉して帰らる 一康安元年半丑七月に時氏父
子因幡伯耆出雲の軍勢三千五百
余騎を卒(率)して美作国に赴き同 十三日に赤松が城を攻らる此時に当 国の守護赤松筑前守貞範は播 州にあり時氏其虚に乗て攻討 る丶程に広戸掃部助が守る所の 名木の城能仙の城小原入道が小原 |
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の城飯田一族が篠田の城大野一族が
大野の城菅家一族が大見丈城共外 林野妙見等の城を攻落しまた有 元民部丞佐久入道紹英佐用美 作守直久が守る所の菩提寺の 城を攻む城中防ぎ戦うといえども 援の兵もなく有元佐用終に百 騎計になりて同国倉掛の城に引 籠る是を聞て赤松筑前守播磨 美作の境竹山千草吉野石が峯に 城を構えて是を防がんとはかる 時氏の長臣小林民部丞重長千 余騎を引具して星祭嶽に登 り城を目の下に見おろして乗り崩 んとす赤松貞範が弟律師則祐 同信濃守光範同出羽守顕範 |
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同宮内少輔宗範佐用治郎隆範
上月真嶋宇野柏原等を先きと して二千余騎にて高倉山の麓 に陣を取る右衛門佐師義八百余騎 を卒(率)いて赤松が勢と相戦う時に 阿保肥前入道信禅赤松が陣にあ りしが時氏へ内通して但馬を指し て引退くまた長九郎左衛門尉も播 磨を取んとはかるのよしを聞 て赤松貞範播州法華山に城を 構えて軍兵を籠置て是を守らし む師義但馬へ赴かんとするに赤松 が軍士遮り止て進退自由ならず 赤松細川右馬頭頼之に牒し合て 時氏父子を討んと計といえども此時 山陰道委く宮方になりて時氏の |
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旗下に属するのゆえに赤松の謀符
合せず大に敗軍しければ時氏の武 威山陰山陽の両道に振う 一同二年壬寅六月三日に時氏父子
五千四百余騎を率(率)いて伯耆国羽
衣石を発し美作の院庄に赴き 軍勢を召集め師義義理をして備 前備中の両国にむかわせらる師義 兄弟備前の仁万堀に陣せらるその 勢二千百余騎なり福林寺涌上の一 族等小勢にして戦い利なきを 察し師義の陣に降参すこれに よりて多治見備中守楢崎三河守 を大将として九百余騎をさしそえ 備中の新見に出張せしめらる処に 飽庭肥前守降参す楢崎多治見松 |
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山の城に入る当国の守護高越後
守師季戦わずして備前の徳倉の 城に逃れ退く多治見楢崎是を 追い討て師季が家人赤木父子 を討とる備前備中の国人大半時 氏に降参せり時氏下知して冨田 判官秀貞同弾正少弼直貞に八百 余騎を差添えて備後国に打入ら しむ江田廣澤三吉の一族降参し て二千余騎になる時氏惣軍を 引卒(率)して播磨路をこえんと せらる赤松大山に城を構えて 但馬路を差塞ぎ仁木兵部少輔義 尹は和久郷に陣して待掛たり石 橋左衛門佐今川右京亮等義詮の 命を受て三千余騎にて京都を |
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発し丹波の篠村につく中務少輔
氏冬小林民部丞京勢と戦て雌雄 をけっせんと計るといえ共兵粮の 道塞りしかば勢を引て伯耆に うち入る同十月七日に時氏も諸軍 を卒(率)いて因幡国青野庄に帰陣 あり 一貞治二年癸卯四月に義詮公諸
将を召めあり山名いま
芳野殿の味方として山陰山陽の 両道に猛威を振い其勢い強大 なり諸国の宮方も蜂起せり今 是を討んとせば京都無勢にし て後難はかりかたし和談を納て 山名を味方に降らしめば北国の足 利桃井を始め皆軍門に降るべし然 |
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れば芳野の宮方微々になりて
大平の謀たるべしと各評議ありて一色 宮内少輔詮光を以て時氏に事の 子細を説て将軍家に帰伏せし めむとす時氏の日某南方の御味 方に参りて十二年の間武威を 京都ならびに山陰山陽の両道に 振て討随える国凡五方国なりいま 此五方国を以て将軍家より安堵の 家に属し申べし叶うまじきにて 候はば当家の武運にまかせ申さんと 返答あり一色詮光京都にかえり 右のおもむきを相仲るに義詮公 諸将と評議あり山名味方に降 りなば諸国の宮方望を失うべし |
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只其請う処に任すべしと一決して
時氏父子同四月十八日に伯耆を発し 京都に着き同廿八日に将軍義詮 公に拝謁し則但馬因幡伯耆丹波 美作の五方国を賜り出曇丹後の守 や護職となる 一応安元年戊申に将軍義満公義詮公が男
評定衆を定めらる則騒仁木左京
太夫義長今川右京亮貞世佐老木 左衛門尉氏頼赤松上総介義則五人 なり 一同三年庚戍四月に将軍義満公
細川武蔵守頼之をして南方に向
わせらる時氏父子も是に従い同 八日京都を発し同十五日に河内国に 着き勢を四に分ち一手は千剣破城 |
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一手は赤坂城一手は飯森城一手は八
尾城に向う時氏父子今川上総介 泰範は一万五千騎に将として千剣 破城にむかい龍泉寺観音寺両所に 陣して戦うといえ共寄手度々利を 失う始め時氏父子は観音寺中院に 陣せらる聊か思維ありけるにや 退て龍泉寺山に陣し城に向て 陣取らる同十一月に細川頼之諸将 と計りて時氏をして和泉河内の 内に放火し氏清をして敵の兵粮 の道を指塞ぎ其ついえに乗て攻ん と約して氏清を止て同二十二日に 諸勢京都に帰陣あり 今年八月朔日に将軍義満公
へ丹波国の百姓芹一籠を献上す |
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御喜悦あり諸将を召て祝
儀あり猿楽を興行せらる時 氏父子も召によりて着座あり 座席尤厳重なり 一同十二月に時氏老年に及により領
国但馬因幡伯耆美作丹波丹後
紀伊和泉備後隠岐出雲十一方国 を家嫡に譲り与え隠居すべきの よしを乞わる将軍家許容あり よりて十一方国を以て子息に分ち 与えらる世に時氏を称して六分一殿 と言う 一応安四年辛亥春時氏病床に
伏し同二月廿八日に卒去あり行年
六十九歳法名道静道号鎮國光 孝寺殿と号す |
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時氏に十七男五女あり五男伊
豫守時義を以て一家の正統と せらる詳に系図に見えたり |


















